Historians Club

戦国時代・国衆・荘園など奈良(大和)の歴史情報

矢田氏(大和矢田氏)

 「矢田氏」は矢田庄を本拠とした大和の在地武士である。矢田氏関する史料は、鎌倉時代後期や南北朝時代にも散見され、鎌倉時代には既に矢田氏を名乗り、この地域で活動していたことが確認できる。室町時代には矢田庄の下司職を務め、衆徒の家格を持っていた。

  

 

東北院との関係

 大和の在地武士の家格には衆徒と国民の二つがあり、矢田氏の家格は衆徒であった。応永二十一年(一四一四年)の史料に、衆徒の一人として矢田氏の名前が書かれている。衆徒は興福寺の院家に仕える武士であるが、一乗院や大乗院の名簿には、矢田氏の名前が見当たらない。室町時代の矢田氏は、東北院の式典や祝宴に役割を割り振られており、東北院に属する衆徒であった可能性がある。

 矢田氏は、矢田庄の下司職を務め、矢田庄の番頭米の担当でもあった。東北院との関係が深いためか、西金堂に対する番頭米の未納を繰り返しており、その頻度は鳥見庄よりも多く、数多くの史料が残されている。寛正四年(一四六三年)の番頭米の未納に関する史料に、矢田春力丸の名前があり、この時期の矢田氏の当主であったようだ。

 

箸尾氏との関係

 文明九年(一四七七年)に矢田春力丸の後継ぎを小泉氏から迎えたこと、小泉氏と箸尾氏、矢田氏と箸尾氏のそれぞれが縁戚関係にあったとされていることなどを考えあわせれば、矢田氏・小泉氏・箸尾氏は一族あるいは一党であった可能性がある。次の二つの事件でも、箸尾氏が矢田氏を支援しており、両氏の関係性を示しているように思われる。

  • 明応五年(一四九六年)、矢田と鳥見とが山林の権利をめぐって争った際に、鳥見には郡山衆が、矢田には小泉氏、片岡氏、箸尾氏が合力した。
  • 永禄四年(一五六一年)、矢田氏と郡山衆が対立した際に、矢田に箸尾氏が合力した。

 戦国時代の大和では、筒井氏、越智氏、古市氏、十市氏、箸尾氏の五氏の勢力が強く、他の国衆(在地武士)は、いずれかの勢力に属することが多かった。こういったことから考えると、矢田氏は箸尾氏に属し、その一族あるいは一党として活動していたのではないかと考えられる。

 

筒井氏との関係

 矢田氏は筒井氏の家臣であったとの記事をよく見かけるが、戦国時代において筒井氏の家臣であることを示す明確な史料は、これと言って見当たらない。

 永正十七年(一五二〇年)や享禄元年(一五二八年)には、矢田氏が筒井氏と戦ったという史料もあり、敵味方の組合せは時々の状況により正反対になることもあるので一概には言えないが、戦国時代の矢田氏は筒井氏とは敵対関係にあったと考えた方が妥当なようだ。

 箸尾氏も、明応の政変(明応二年、一四九三年)以降は、筒井氏と敵対する時期が長く、矢田氏が筒井氏と敵対関係にあったのは、箸尾氏と歩調を合わせたからと考えられる。元亀二年(一五七一年)に、箸尾氏は筒井氏と和睦しており、この時に矢田氏も行動を共にした可能性が考えられる。

 天正八年(一五八〇年)に、筒井順慶が織田信長から大和に支配を認められると、矢田氏も筒井氏の配下に加わったようだ。ただし、その立場が家臣なのか与力なのかは、はっきりとはしていない。とはいえ、反筒井系の国衆の粛清を命令されており、与力であったとしても従属度は強いと言えるだろう。筒井氏の伊賀国替にも従ったらしく、その頃には、筒井氏の家臣と見なしてもよい存在となっていたと考えられる

 

【矢田氏の主な属性】

  • 家格:衆徒
  • 所属:東北院
  • 本拠:矢田庄(矢田庄下司)