「中鳥見庄」は、奈良市三碓あたりに存在した荘園で、富雄川中流域にあった三つの荘園のうちの一つである。鳥見庄や上鳥見庄が興福寺の荘園であったのに対し、中鳥見庄は京都の仁和寺の荘園であった。同時に興福寺の収益権も設定されるなど、権利関係が複雑な荘園でもあった。
仁和寺の荘園
中鳥見庄は、平安時代末期から鎌倉時代初期に、後鳥羽天皇の中宮で関白九条兼実の娘であった宜秋門院(九条任子)から、仁和寺に寄進され、仁和寺理証院の荘園となった。
室町時代になると、荘園外部から在地武士が侵入したり、荘園内部の名主や沙汰人が年貢を納めなくなるなどの問題が発生し、仁和寺の支配は不安定なものとなっていた。何通かの室町幕府奉行人奉書が残されており、このような問題が度々発生していたことがわかる。室町幕府奉行人奉書の中には、「当所名主沙汰人中」宛に発行されたものがあり、この頃の中鳥見庄の現地管理者は、荘園に住む複数の名主沙汰人であったようだ。
代官・井上近江守良定
所有者が京都で現地が奈良というように距離が離れていることもあり、このような管理体制では年貢の確保もままならないためであろう、仁和寺では代官を選び、年貢の納入を請負わせることにした。明応五年(一四九六年)には、井上良定が代官となっている。井上良定は、大和の有力武士である古市澄胤の被官(家臣)である。家臣とはいえ、南山城綴喜郡の郡代となったり、従五位上にあたる近江守の官途を得たりと、大和の在地武士の枠に収まらない広範な活動をする武士であった。なお、代官を請負う際の文書で、井上良定は中鳥見庄ではなく三碓庄の名称を使用しており、これ以降は三碓庄の名称が専ら使われるようになっていく。
代官制度を導入したものの、天文年間(一五三二~一五五五年)以降、大和の有力武士である越智氏による侵入などで年貢の確保が困難となり、仁和寺内部でも理証院と菩提院のと間で所有権争いが起こるなど、問題は解消せず、より一層複雑になったようだ。
とはいえ、戦国時代においても、三碓庄は仁和寺の荘園であり続けた。天正八年(一五八〇年)に、仁和寺が織田信長に提出した所領目録には、三碓庄から五十石の年貢があることが記載されている。
興福寺の収益権
中鳥見庄に対しては、興福寺大乗院も権利を有していた。その権利は荘園の所有者以外が持つ収益権で、「負所米」と呼ばれるものであった。中鳥見庄の負所米は、鎌倉時代の建治二年(一二七六年)に中鳥見庄の住人が、倶舎談義という法会の費用として興福寺竜花院へ寄進した米、六石分がそれにあたる。室町時代の文明年間(一四六九~一四八七年)には、小泉氏一族の僧侶が三石、興福寺南院が三石、それぞれ収入として得ていた。竜花院は大乗院の一部、南院は大乗院の下位組織、小泉氏は大乗院に仕える武士であり、いずれの収入も大乗院から与えられたものであった。
小泉氏はこの収入を根拠にして、明応六年(一四九七年)には中鳥見庄に私段銭を賦課しようとしている。私段銭とは領主が一存で賦課する臨時税のようなもので、これが徴収できれば、その地を実質的に支配したと考えられるものである。この私段銭を小泉氏が徴収できたかどうかは、史料からは明らかではない。
なお、この負所米に関する史料に、中鳥見庄と三唐臼の名称が併記されているものが複数あり、中鳥見庄と三唐臼(三碓)が同じ場所であることがわかる。
『奈良県史』では、中鳥見庄を興福寺大乗院の荘園と結論付けているが、奈良県史が作成された当時は仁和寺系の史料が良く知られていなかったため、大乗院の負所米の権利を重視して、そのような結論になったものと思われる。
また、興福寺の「寺門段銭」の台帳に、中鳥見庄の面積が十八町と記載されていたことも、興福寺の荘園と考える理由の一つになったのであろう。しかし、寺門段銭は「一国平均役」で、興福寺が大和の国主あるいは守護として処遇されていたために持っていた、臨時税の徴税権である。大和一国に対して、水田一段あたり幾らと決めて徴収することができたもので、荘園の所有者が誰かということに関係はない。
実際のところは、中鳥見庄は仁和寺の荘園であり、興福寺も一定の権利を持っていたと考えるのが妥当であろう。