Historians Club

戦国時代・国衆・荘園など奈良(大和)の歴史情報

生馬庄(生駒庄)

 「生馬庄」は、生駒市に存在した荘園である。地域的言えば生駒市の南半分にあたり、竜田川の流域に広がっていた。この地域には、興福寺一乗院と仁和寺がそれぞれに所有する二つの生馬庄があった。史料上での表記は、現在の地名表記の生駒とは異なり、生馬と書かれているものがほとんどである。

  

 

一乗院の生馬庄

 興福寺一乗院の生馬庄の成立の経緯などは、鎌倉時代後期に記された「簡要類聚鈔」という史料に次のように記されている。

 生馬庄は、平安時代後期の院政時代に、南家藤原氏の出身で興福寺の僧侶であった定覚から寄進され興福寺一乗院の荘園となった。寄進後も領家職など荘園の収益権の一部は、南家藤原氏の一族によって相続されようで、同じく南家藤原氏の出身で興福寺僧侶であった寛清に引き継がれている。

 その後、鎌倉時代前期には荘園が分割相続された。一分方(三分の一)を相続した尋恵には問題はなかったが、二分方(三分の二)を相続した寛清の子孫は領民と対立し、その対立が寛元年間(一二四三~一二四七年)に合戦騒ぎにまで発展したため、南家藤原氏が相続してきた領家職が一乗院に没収されてしまったらしい。この状態が、史料の書かれた鎌倉時代後期まで続いていたようだ。

 室町時代には、荘園の所有権は引き続き興福寺一乗院にあり、その面積は約三十三町であった。荘園の現地管理者である下司職は根尾氏が務め、公文職は中村氏が務めていた。年貢については、通常の年貢の他に、摂関家の当主(藤氏長者)等が奈良を訪問する際の施設整備費を負担する定めがあったらしい。

 

仁和寺の生馬庄

 仁和寺の生馬庄については、建武三年(一三三六年)の史料に、生馬庄を元の通り仁和寺門跡の所有と認めるとの記載があり、鎌倉時代には仁和寺の荘園となっていたことは確かである。興福寺の記録「大乗院寺社雑事記」の応仁二年(一四六八年)の記事には、御室(仁和寺)領生馬庄との記載があり、興福寺も仁和寺領の存在を認めていたようだ。また、天正八年(一五七八年)に、仁和寺が織田信長に提出した所領目録にも生馬上庄の記載があり、室町時代を通じて仁和寺の生馬庄が存在し続けていたことがわかる。

 

生馬上庄と生馬下庄

 興福寺一乗院と仁和寺の二つの生馬庄だが、一乗院の荘園を「生馬下庄」、仁和寺の荘園を「生馬上庄」と記載した史料がいくつかある。この表記を見ると、一つの荘園の中に所有地が入り組んで存在したというよりも、まとまった形で分割して所有されていた印象を受ける。具体的な場所を指定するに足る根拠は少ないが、生駒下庄が南側、生駒上庄が北側にあったように思われる。