Historians Club

戦国時代・国衆・荘園など奈良(大和)の歴史情報

矢田庄

 「矢田庄」は、大和郡山市矢田町あたりに存在した荘園で、富雄川の支流に沿って広がっていた。北に位置する鳥見庄と一体として取り扱われることが多いという特徴を持っている。寺門段銭の台帳によれば、その面積は七十九町で、大和の荘園の中では比較的大きな部類に入る。

  

 

鳥見庄と一体の荘園

 史料では「鳥見矢田庄」と表記されるなど、鳥見庄と一体として扱われていることが多く、その経緯も同じである。平安時代後期には興福寺西金堂の荘園となっていたこと、治承・寿永の乱によって所有権が平家・木曽義仲・源頼朝と転々としたこと、鎌倉時代に地頭が設置されたこと、建武政権から東北院が地頭に任命されたこと、室町時代以降に東北院と西金堂の間で所有権や収益権をめぐる対立が続いたこと、応仁の乱終結後に越智氏系勢力による支配が行われたこと、戦国時代に東北院と西金堂の間で一定の合意が成立したらしいことなど、いずれも鳥見庄と同様であった。

 

番頭米の未納問題

 矢田庄と鳥見庄の違いとしては、番頭米の取扱をあげることができる。矢田庄の番頭米も七十五石で、その担当は矢田庄の下司職である矢田氏であった。本来、番頭米は西金堂の収益権であったが、これについても、東北院と西金堂の間で対立があり、矢田庄は番頭米の一部または全部の未納を繰り返している。鳥見庄でも番頭米の未納はあったが、その回数は矢田庄の方が多い。特に、康正二年(一四五六年)から文明五年(一四七三年)にかけて頻発している。矢田氏は東北院との関係が深く、東北院に意に沿う形で、このような未納を繰り返していたと考えられる