Historians Club

戦国時代・国衆・荘園など奈良(大和)の歴史情報

上鳥見庄

 「上鳥見庄」は、生駒市上町、鹿畑町、奈良市二名町あたり存在した荘園で、富雄川中流域にあった三つの荘園のうちの一つである。鎌倉時代以前の史料がなく、荘園が成立した経緯などはよく分からないが、室町時代には複数の所有者が分割して所有する荘園となっていた。

  

 

大乗院系の所有者たち

 上鳥見庄については、史料によって、所有者の名前に違いがあるし、荘園全体の面積も十七町から五十七町までと大きな開きがある。複数の史料から、所有者と面積を整理すると次のとおりになる。

  • 報恩院、約六町三段、大乗院系列の院家、菩提山とも称される
  • 松林院、約五町七段、大乗院系列の院家、公家出身の僧侶が院主を務め、興福寺の代表である別当を出すこともある有力な院家
  • 竹林寺、約三町、大乗院系列の寺院、現在の生駒市にある寺院
  • 食堂瑜伽論田、約九町、興福寺全体で行う法会の費用の一つを賄う荘園と思われる

 所有者には大乗院の系列が多い。大乗院は、興福寺でも最も有力な院家の一つで、藤原氏の摂関家のうち、九条家、一条家、二条家の三家から当主を迎え、その当主は門跡と称されるほど地位が高かった。所有する荘園も多く、興福寺内の他の院家や在地武士と主従関係を結び、大乗院家と呼ばれるような存在であった。いずれの荘園も大乗院が報恩院や松林院などに分け与えた荘園と考えられる。

 この他にも、千本領、御所西谷寺領などがあったとされるが、その内容はよく分からない。

 

和田氏と鵜山氏

 荘園の現地管理者である下司は和田氏で、公文は鵜山氏であった。いずれも大乗院に仕える在地武士で、荘園の職である下司職、公文職とそれに伴う収入を与えられていた。和田氏、鵜山氏とも上鳥見庄関係の記事には登場するが、それ以外の記事にはあまり登場しないことから、身分もそれほど高くはなく、勢力も大きくはなかったと考えられる。

 上鳥見庄の管理権をめぐっては、和田氏、鵜山氏に加え、秋篠氏を含めた三者間で争いがあり、文明六年(一四七四年)から天文十四年(一五四五年)までの約七〇年間にわたり、この件に関する史料が断続的に残されている。天文十四年(一五四五年)には、秋篠春藤が、以前の食堂瑜伽論田で当時は上鳥見二名庄と呼ばれてた荘園の外護職を得ており、この争いは秋篠氏優位の内に進んでいたようだ。