「根尾氏」は、生馬庄を本拠とした大和の在地武士である。興福寺一乗院の荘園である生馬庄の下司職を務め、僧侶として興福寺の法会にも度々参加していた。このようなことから、根尾氏は、「衆徒」の家格を持ち、「一乗院」に属する在地武士(国衆)であったと考えられる。
国衆としての活動
室町時代の永享二年(一四四〇年)、仲間の国衆が東大寺の荘園に関して揉め事を起こした際に、根尾氏の当主である根尾浄尊が東大寺に攻め寄せている。その結果、根尾氏は一乗院から討伐をうけることになったが、仲間の国衆が罰金を支払い、根尾浄尊・小泉重弘・辰巳実弘の三人が謝罪文を提出するなどして決着することになった。この出来事は、根尾氏が勢力拡大を目指す国衆同士のつながりを重視した武士としての一面を表したものだと考えられる。
根尾浄尊は僧侶としての活動も活発で、法花会や修二会などの法会に度々加わっている。衆徒身分を持つ国衆として、武士の一面と僧侶の一面の両方を持っていたことがわかる。
文明六年(一四七五年)に、根尾氏は他の国衆と共に万歳氏を攻めている。その後、一時没落したようだが復活を果たし、明応六年(一四九八年)には三井庄の知行や他の収益権を獲得するなど勢力拡大に努めていた。大和の有力国衆との関係には、はっきりとした傾向はみられないが、永正年間(一五〇四~一五二一年)頃は、越智氏と行動を共にしていたようだ。
ただし、国衆としての具体的な活動が追えるのは、この辺りの時期までで、天正年間(一五七三~一五九三年)になると、僧侶としての活動が確認できる程度になっている。
生馬庄関係の他の国衆
根尾氏の他にも、生馬庄や生馬に係わる国衆としては、生馬庄の公文職を務めた中村氏や、生馬西と称して興福寺の法会に参加していた萩原氏の名前が史料で確認できる。
【根尾氏の主な属性】
- 家格:衆徒
- 所属:一乗院
- 本拠:生馬庄(生馬庄下司)