「鳥見福西氏」は大和の在地武士である。大和の国衆(在地武士)に関する有名な史料で、「大乗院寺社雑事記」康正三年(一四五七年)四月二十八日の、一乗院と大乗院に属する衆徒・国民の一覧に名前が記載されていることから、鳥見地方の代表的な在地武士と見なされている。
大乗院との関係
鳥見福西氏は、衆徒の家格を持ち、大乗院に属していた。大乗院から若槻庄内に三十石の給分を与えられ、大乗院からの文書の配布先に名前が記され、大乗院の警護役を割り振られ、大乗院に対して忠勤を約束する文書を提出し、大乗院の院主である尋尊に対して年末年始の訪問を欠かさないなど、大乗院とは密接な関係にあったことが分かる。
とはいえ、分かるのはここまでで、鳥見庄には住んでいたようだが、鳥見庄とどのような係わりがあったのか、それ以外にどのような行動をとっていたのか、特徴的な内容となると、ほぼ分からない。
筒井氏との関係
大和の他の国衆(在地武士)との関係で言えば、「大乗院寺社雑事記」に、小泉氏の一族であったことをにおわせる記事があるが、鳥見福西氏と小泉氏が行動を共にしたような決め手となる史料がなく、確証があるとは言い難い。
戦国時代後期には筒井氏との関係が深くなっていた。天文十四年(一五四五年)に、鳥見福西氏と中坊氏が対立した際には、筒井順昭の支援を受けている。この頃はまだ、筒井氏の支援を受けてはいたが、国衆であったようだ。その後、筒井氏に対する従属度を次第に強め、その家臣となったと考えられる。天正十一年(一五八三年)以降の史料には筒井氏の家臣として活動する福西入道の名前がある。
【鳥見福西氏の主な属性】
- 家格:衆徒
- 所属:大乗院
- 本拠:不明(若槻庄に三十石の給分)