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戦国時代・国衆・荘園など奈良(大和)の歴史情報

鳥見庄

 「鳥見庄」は、奈良市中町、大和田町、石木町あたりに存在した荘園で、富雄川中流域にあった三つの荘園のうちの一つである。大和でも有数の大規模な荘園で、鳥見庄の歴史は、大和をめぐる政治・軍事情勢の変化のみならず、日本史の大きな出来事の影響を受けることも多かった。

  

 

大規模な荘園

 寺門段銭の台帳によれば、鳥見庄の面積は約九十四町であった。大和では、荘園は小規模に分割されて所有されていることが多く、これほどの規模ものは少ない。同じ台帳に載せられた大和の荘園を大きなものから挙げると次のとおりとなる。

  • 平田庄、約一四〇〇町、大和では最大の荘園、興福寺一乗院が所有
  • 佐保殿御領、約三〇〇町、藤原摂関家の荘園、特定の家ではなく摂関家の当主を務めた人物の所有となる荘園、殿下渡領の一つ
  • 長川庄、約一六五町、興福寺一乗院が所有
  • 宿院御領、約一〇〇町、近衛家の荘園
  • 鳥見庄、約九十四町

 鳥見庄は大和で五番目に大きな荘園であった。大きな荘園は争奪の的になりやすく、政治状況から無関係ではいられない。残された史料からは、事実そのようであったことがわかる。

 

西金堂荘園の成立

 鳥見庄の成立は平安時代中期以前にさかのぼる。ただし、詳しい成立時期や成立にかかわった人物などはよく分からない。

 室町時代の史料「大乗院寺社雑事記」によれば、平安時代前期(九世紀前半)に小野篁から興福寺に寄進されたとされるが、このことは他の史料には何の言及もなく、また、小野氏が藤原氏の氏寺である興福寺に荘園を寄進する理由が考えにくく、結論は留保しておきたい。

 とはいえ、鳥見庄は平安時代には成立しており、平安時代後期には興福寺西金堂が所有する荘園となっていたことは確かである。

 鳥見庄で最も重要とされた収益権は、修二会という法会の費用に充てる「番頭米」であった。興福寺の修二会は、西金堂と東金堂の二か所で行われ、西金堂の番頭米は鳥見庄と矢田庄が、東金堂の番頭米は木津庄が、それぞれ負担していた。この収益権の扱いが、所有権の帰属とは別に、鳥見庄をめぐる問題の一つであった。

 

治承・寿永の乱による変転

 治承・寿永の乱(源平合戦)から鎌倉幕府の成立と、時代が大きく変化する時、鳥見庄の所有者も大きく変化している。治承四年(一一八〇年)の「南都焼討」で興福寺が平家に敗れると、興福寺西金堂の荘園であった鳥見庄は平家に没収された。寿永二年(一一八三年)に平家が木曽義仲に敗れると次は木曽義仲の荘園となり、寿永三年(一一八四年)に木曽義仲が源頼朝に敗れると今度は源頼朝の荘園となるというように、鳥見庄の所有権は権力者の間を転々とすることとなった。その後、文治五年(一一八九年)には、興福寺西金堂から源頼朝に対し、鳥見庄の返還請求がなされている。なお、この返還請求の結果がどうなったのかは明らかではない。

 

鎌倉幕府による地頭の設置

 鎌倉時代の鳥見庄には、鎌倉幕府によって「地頭」が設置された。年次が確認できるものだけでも、建長六年(一二五四年)、正安元年(一二九九年)、乾元元年(一三〇二年)と断続的ではあるが、鳥見庄に地頭がいたことを示す史料が残されている。

 鎌倉幕府における地頭の設置に関しては様々な説があるが、元暦元年(一一八四年)に「平家没官領」に対して設置されたものが最初であるとする説が有力である。鳥見庄も平家に没収された経緯から平家没官領の一つとみなされ、その時に地頭が設置されたのだろう。文治五年(一一八九年)の返還請求の史料に源頼朝の家臣が鳥見庄を支配していると書かれていることも、そのことを裏付けている。

 鳥見庄の地頭をどのような一族が務めたのかは明らかではないが、地頭の一人に「尼御前」と称する人物がおり、女性の地頭がいたことは分かっている。鎌倉幕府は武士(御家人)の妻や母を地頭に任命することも多く、尼御前もそのような地頭の一人であった。

 地頭が設置されたからと言って、荘園領主がいなくなったわけではない。鎌倉時代の地頭と荘園領主は、所有権や収益権を分割したりして併存することが一般的であり、鳥見庄でも、地頭と荘園領主である興福寺西金堂が併存していたと考えるのが妥当であろう。ただし、史料は地頭関係のものが多く、荘園領主関係のものは少ない。そのため、鎌倉時代の鳥見庄では地頭の勢いの方が優勢であったような印象を受ける。

 

東北院と西金堂の対立

 元弘三年(一三三三年)、建武政権から興福寺東北院が鳥見庄の地頭に任命された。これ以降、鳥見庄の所有権や収益権をめぐり、東北院と西金堂の対立が始まった。

 東北院の所有権は室町幕府にも認められており、応永年間(一三九四~一四八二年)の三代将軍・足利義満の御教書には鳥見庄が東北院領であると書かれている。これに対して西金堂も幕府に訴えを起こし、永享四年(一四三二年)に六代将軍・足利義教から鳥見庄の所有権は西金堂にあるという裁定が出されている。その後も、将軍の代替わりや政治・軍事情勢の変化に伴い、鳥見庄の所有権は西金堂と東北院の間を行ったり来たりを繰り返し、定まることがなかった。そのような史料が長い期間にわたって断続的に残されており、鳥見庄の所有権をめぐる東北院と西金堂の対立は、南北朝時代から室町時代まで続ていたと考えられる。

 この当時、収益権である番頭米は、在地武士である鳥見今中氏の担当となっていた。鳥見今中氏は、鳥見庄に十四町五反の田地を与えられ、そこから七十五石の番頭米を納めていた。ちなみに、田地一反で一石の米が獲れる想定であったから、与えられた田地からは一四五石の米が獲れることになり、この件に関する鳥見今中氏の手取は年間七〇石程度であった。

 

越智氏系勢力による支配

 東北院と西金堂の対立が続いていることに加え、両畠山の抗争以来続く戦乱が、鳥見庄に対する武士の影響力を増大させた。当初は、古市氏や小泉氏が思いついたように係わる程度であったが、文明九年(一四七七年)の応仁の乱の終結以降は、越智氏や古市氏など越智氏系勢力が鳥見庄を継続的に支配するようになっていった。

  • 文明九年(一四七七年)、中御門氏(越智氏の代官)が鳥見庄に入る。
  • 文明十年(一四七八年)、鳥見今中氏が没落する。
  • 文明十八年(一四八六年)、井上良定(古市氏の被官)らが鳥見今中氏の跡地を支配していた。
  • 延徳元年(一四八九年)、堤氏(越智氏の被官)が鳥見庄の納所(荘園の管理者)となる。
  • 明応六年(一四九七年)、越智氏系勢力による鳥見庄の押領が続く。

 足掛け二十年間も越智氏系勢力の支配が続いたことがわかる。越智氏系の勢力が支配してた時期は、越智氏により段銭が賦課され、番頭米の納付も免除されていたようだ。

 なお、明応二年(一四九三年)に起きた明応の政変では、上原元秀(細川政元の被官)が畠山義豊から鳥見庄を与えられ、越智氏系勢力による支配が中断されるという出来事があった。この出来事は、この時期の鳥見庄の給付権(領地をあたえる権利)が畠山氏(畠山義就系)にあったことをうかがわせる。

 越智氏系勢力の鳥見庄が始まった文明九年は、畠山義就が河内を平定し、その影響で大和の情勢も大きく変化した年であった。そのような経緯を考えあわせれば、越智氏系勢力の鳥見庄の支配も、畠山氏の承認のもとで行われていたと考えられる

 

他国武将の進出

 明応八年(一四九九年)以降、他国武将が大和への進出を繰り返すようになると、鳥見庄も当然のようにその影響を受けた。

  • 永正四年(一五〇七年)の「永正の錯乱」の際には、細川澄元の被官である赤沢長経が大和に侵入し、これと対立する畠山尚順が鳥見・生馬まで陣を進めた。その後、鳥見・生馬・矢田一帯は焼討を受けている。
  • 永禄九年(一五六六年)には、松永久秀と対立した三好三人衆が、鳥見まで陣を進めている。
  • 元亀元年(一五七〇年)の段階では、鳥見庄は松永久秀の家臣である池田豊後守の領地となっている。

 戦国時代の鳥見庄に関する史料は断片的で数も少なく、他国武将の進出が鳥見庄に与えた影響の詳しい内容や経緯はよく分からない。一方、東北院と西金堂の対立は、大永年間(一五二一~一五二八年)頃に所有権は東北院、収益権である番頭米は西金堂という合意が、興福寺内部で成立していたようである。とはいえ、この合意が他国武将の影響を排除できるほどのものであったかは明らかではない。戦国時代の鳥見庄は、いずれかの勢力が安定的に支配を続けたというような印象は少なく、それら様々な組織や人物が勢力を競い合う地域の一つであったようだ。